撫順の奇蹟とはどのような奇蹟なのか(仮題)

 

 

 日本に「中国帰還者連絡会(以下、中帰連)」という組織があります。先ほどお見せしたビデオのあの土屋さんも、そのお一人でした。この会は、今からほぼ半世紀前の1956に中国から帰国した約1000名の元将校、兵士あるいは憲兵たちによって、その翌年に結成されたものです。

 日中戦争において、日本軍は中国に莫大な被害をもたらしました。犠牲者の大半は罪もない一般庶民です。日本の敗戦によって、いま述べた彼らを含む旧軍人達の多くがまず旧ソ連軍の捕虜となりますが、五年間にわたる苛酷なシベリア抑留生活に続いて、当の1000名は新たに「戦犯」として新生の中華人民共和国に引き渡されました。そしてその1950年から6年間を、彼らは撫順戦犯管理所で過ごすことになったのです。

 ところが、撫順における待遇は、シベリアとはまったく違っていました。管理の基本方針は、戦犯といえども人間であるから、彼らの人格を最大限に尊重せよ、というものでした。もはや彼らは、飢えや寒さ、そして強制労働からも解放されました。この人道的待遇をもって中国は彼らに何を望んだのでしょうか。それは、彼らがかつて中国で行った、殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くすという犯罪を自ら告白し、この過去を反省することによって戦争の鬼から再び人間に戻ることです。いっけん簡単であるようにもみえます。しかし、それはありとあらゆる意味で困難を極め尽くしました。

 日本人は捕虜から戦犯への名称変更に最初は激怒しました。上官いや果ては天皇の命令に従っただけの我々が、なぜ犯罪者として責任を追及されなければならないのか、と。彼らは反抗し、ふてくされ、さらには自暴自棄になりました。管理所の驚くべき待遇のよさも、これから彼らを待っているであろう報復的処刑への“気休め”ではないかと疑い、そして内心では怯えました。

 しかし、真実のところ心底はらわたが煮えくりかえるような思いをしていたのは中国人所員の方でした。なぜなら、彼らの肉親がまさに日本軍の兵士によって殺されていたのだからです。彼らは当然にも復讐欲に燃えていました。にもかかわらず、身内まで殺された当の殺人鬼の集団に至れり尽くせりのサービスをしなければならないのです。彼らこそこの理不尽さに強く憤りました。ところが、反抗してくる日本人戦犯を殴ることはおろか、言葉で罵ることすら彼らには固く禁じられました。「一人の死者も出してはならない」。これが管理所の鉄則でした。

 或る若い所員は、担当する戦犯の中に、父を目の前で虐殺した憎き仇を発見しました。悩みあぐねたすえに、彼は所長に転勤を願い出ます。しかし所長は言いました。「君の気持ちは痛いほどよく分かる。でもいま君が日本人たちを見捨てるなら、彼らはきっとまた新たな侵略者を続く世代に生み出すに違いない。これでは、第二、第三の君の父を失うことになる。果たして天国のお父さんは、報復の応酬が生み出す悲劇の繰り返しを望んでいるだろうか。」憎しみをやっとの思いで押し殺して、この所員は職場に留まりました。後に彼は、真夜中に急性盲腸炎の激痛に襲われたその仇を「大丈夫だ」と励ましながら背負って医務室まで運び、仇の命を救うことになります。

 ほんらい人間とは他者の眼差しにすら応答する存在です。当初の憎しみと反感は、しかし少しずつお互いの認知へ、さらには相互の信頼へと変わっていきました。反抗期が終わって各種の遊びにうち興じていた戦犯たちも、自主的に学習会を開くようになりました。彼らは、自分たちがなぜここにいるのか、そして侵略した軍隊の兵士である自分たちがどうしてこのような手厚い扱いを受けているのか、をあらゆる角度から考えるようになりました。とはいえ、戦前の教育によって天皇を世界でただひとりの現人神とあがめ奉り、アジアの他民族を劣等と見下す軍国主義を骨の髄までたたき込まれていた彼らが、自らの犯した過ちを率直に認めるまでは実に長い時間がかかりました。しかも、罪の告白は必然的に自分自身への責任追及と、これに伴う絶望を招きました。「悪いことをしたが、上から命令されただけだという言い逃れは通らない。殺される者の立場に立てば、殺人という行為が加害者の意志によるのか、それとも命令されたやったのか、ということはどうでもよい。命令を実行したのはこの私であり、責任は私にある。」こうして彼らは、もやはたんなる捕虜ではなく、自らも歴とした戦犯であることを自覚したのです。ある日、一人の日本人が罪の意識に耐えかねて、深く掘られた便槽に飛び込み自殺をはかったことがありました。この次に起きたことが、他の日本人たちを心の底から震撼させました。中国人所員の一人が聞きつけるとすぐに駆けつけ、自らも飛び込み、糞尿にまみれまがら彼を担ぎあげ、人口呼吸を施したのです。

 数年にわたる入念な準備期間を経て、軍事法廷は1956年から始まりました。ところが、戦犯の大多数は起訴を免除され、起訴された者も、多くの被告自身が死罪を望んだのに、死刑はゼロでした。「一人の死者も出してはならない」という鉄則は最後の最後まで貫徹されました。ただし、管理所という現場にいた所員たちはこのあまりに寛大な措置には納得がいきませんでした。何よりも歴史のけじめとして、指導者とされるべき者たちには極刑もやむを得ないと考えていたからです。所長は中央の指導者であった周恩来に抗議しました。周は言いました。「侵略の罪を自覚し、もう二度と中国には剣を向けないと誓った彼ら全員が生きて日本に帰り、そして同じ日本人に彼らの体験を話して聴かせるとする。これは私たち中国人が日本人に語るよりもっとずっと効果があろう。寛大政策の正しさは、必ずや未来に証明されるはずだ。」

 おそらく当時は日本人の側でも、撫順の寛大さの意味は十分に理解できなかったはずです。しかし、少なくとも16年ぶりに帰国して、肉親と再会し、さらには新しい家庭をつくって・・・という日本におけるその後の生活を通じて、彼らは少しずつ真実の全貌を理解していったのです。いま生きてあることの喜び、中国の人々に対する言い尽くせぬ感謝、そしてこれと不可分な、犯した罪への悔悟、こうした心の思いは日々刻々と高まっていきました。けれども、彼らは戦後の日本社会から、実に冷たい扱いを受けました。帰国する以前からもう、彼らは「中国共産党に洗脳された赤」とのレッテルを貼られました。日本の各地で就職差別に合い、公安警察の監視もつきました。

 しかしながら、こうした障害にめげるような彼らではありません。早くも1957年に結成した会というのがすなわち、冒頭に触れたあの中帰連でした。公的な活動の皮切りに、彼らが中国で行った戦争犯罪の事実を世に知らしめる本を次々と出版し、これは大きな反響を喚びました。そして、全国各地で証言活動に取り組みました。世界にもほとんど例をみない、加害者自身による公の証言がこうして誕生しました。戦争や惨事の被害者としての経験を公に語ることにも非常な困難が伴うものです。ですが、人道に反する行為の加害者としての経験を聴衆に語ることはもっとずっと難しい。実際、日本の旧軍人たちの圧倒的多数は個人の記憶を公共の記憶とすることを望まず、ただひたすら黙りを決め込んでいました。これとは反対に、中帰連の元兵士たちにとって、証言をすることは贖罪の行為でした。この行為を通じて、彼らは中国人民に対する率直な謝罪を表明すると同時に、同胞たる日本人に、日本政府がいまだに公式の謝罪を拒否し続けている国家的犯罪の真実と深刻さを思い出さようとしたのです。近年の話題を一つだけ挙げると、2000年の12月に東京で女性国際戦犯法廷が開かれたおり、中帰連から二人の元兵士が原告側の証人として、中国における戦時強姦の実行者の立場で証言をしました。裁判官や聴衆だけではなく、原告の女性たち自身も、この二人の老人の勇気を大きく称えました。

 帰国してますます、彼らにとって撫順は絶対に忘れられない、忘れてははらない場所となってゆきました。いまやあの管理所の職員たちは、彼らには人生の恩師となっていました。何度も訪中団を派遣して、かつての管理所を訪れました。けれども残念なことに、いちばん会いたかった職員たち、心から感謝の言葉を伝えたかった中国人たちには会えずにいました。手紙をいくど出しても、返事は帰ってきませんでした。なぜだったか。それは、文化大革命という中国における大きな動乱が両者の間の連絡を許さなかったからです。かつての所員たちは、資本主義国の日本人戦犯を優遇した憎むべき右派として迫害されていたのです。しかし、待ちに待ったその時が、四半世紀を過ぎた1984年になってついにやって来ました。訪日する元所員たちを出迎えようと大勢の元兵士たちが日本各地から空港まで駆けつけました。そこで再会したときの両者の感動を表現するに足る言葉は、私にはありません。取材したマスコミは、かつての敵同士がどうしてこれほどまで熱烈に抱き合い、涙を流して喜び合うのかをまったく理解できませんでした。

 ここで考えてみましょう。戦争の元加害者と元被害者とがおたがいを先生と呼び合う友好関係あるいはそれ以上に親密な関係を結べるのは、彼らが洗脳されているからでしょうか。まったく違います。むしろ洗脳されているのは、国であれ、グループであれ、また個々人であれ、憎むべき敵を有する環境に疑問すら抱かず、つまり報復の応酬が常套手段になっているこの世界にのうのうと暮らす私たちの方ではないでしょうか。「平和とはいっさいの敵意の終わりである」と言ったのは哲学者のカントです(『永遠平和のために』)。まさしくこの意味で言えば、敵をかかえて生きざるをえない私たちこそ本当は戦争に苦しんでいるのです。むしろ真の平和を謳歌しているのは、彼らのような、かつての敵を自らの努力によって友に変えた人々にほかなりません。

 撫順の奇蹟はあるべき複合体です。まず、中国の被害者が日本の加害者の人間性を信頼して憎しみの感情を乗り越え、しかも被害者の側から加害者の側へ友人になろうと手を差し伸べた最大の奇蹟があります。そしてこれに呼応して加害者本人が、犯した罪を自ら認め被害者に謝罪し、戦争を二度と起こさないと、そして起こそうとする勢力に反対し続けると、公に誓う奇蹟があります。そして幸いにも、また当然にも、これらがもう一つの奇蹟につながりました。

 中帰連結成以来ほぼ半世紀の間に、元々いた千人のうちの多くの人々、すなわち8百人以上がすでに亡くなり、会員の平均年齢も80歳を超えました。会の内外で、会の存続自体を危ぶむ声が出始めていました。いうまでもなく、彼らは最期の最期まで、平和と友好を目指す努力を止めるつもりなどありません。しかし、人間の肉体が不滅ではないのも変わらぬ真理です。ところが、世紀が変わろうかというころに、中帰連の精神から学びそれを未来へつなげようとする若い世代の人々が現れだしました。活動を牽引するのは主にまだ20代の若者でした。おじいさんたちと一緒に撫順を訪れて、彼/彼女らはますますその決意を強くしました。2002年4月の或る日、中帰連は会員の高齢化のために公式には解散をしました。でもその翌日に、撫順の奇跡を受け継ぐ会が全国組織として、元中帰連の方々、その家族、そして中国からの来賓に見守られながら発足したのです。現在、受け継ぐ会は全国に10の支部をもち、さらには、ゆっくりとしかし着実に、北京、シドニー、そしてベルリン、はたまたここバンクーバーという具合に、海外の支持者も獲得しています。